観音菩薩
【永昌寺×三世観音菩薩】
【永昌寺×三世観音菩薩】
【永昌寺 × 三世観音菩薩像】
愛媛県松野町にある永昌寺の境内に至る階段を上りきった場所に、三世観音菩薩像はある。仏師・石井成観氏により彫られた仏像で、その表情は何とも優しく、慈愛に満ち溢れて、見ているものを暖かく包み込んでくれる。その場所に立つと、墓所ということを忘れさせるほどの空気が清らかで清々しく感じられるのは、設置された敷地内に敷き詰められた炭の浄化作用だけとは思えない。おそらく、この観音様の溢れる慈愛に包まれることで、心の癒しを得た人々の和らいだ気持ちが、この場所の空気を浄化しているように思える。
この観音様を作成する際に、その趣旨に賛同した数多くの人たちが写経を行い、仏像の完成時にその体内に納められた。その多くの人々の願いも、この場所の空気を育んでいるのかもしれない。
三世観音菩薩の【三世】とは「前世」・「現世」・「来世」を表す。人は三世全てに「業」を背負って生きており、この観音菩薩は、どんな時代のどんな状況にいる人の「業」にも、その右手でさしのべ、左手で慈悲を与えてくれるとされている。
左右両脇にいる子供は「脇童(わじき)」と呼ばれるものであるが、釈迦如来の脇には、観音と勢至菩薩というように、本来であれば仏像が置かれるのが筋であり、文字も脇侍と書くのが正しい。永昌寺三世観音の場合は、育み・守り・包み込む「いのち」の象徴として幼い子供たちが配置され「脇童」とされた。この仏像の前に立つと、子供たちが、親にたしなめられ、許しを請うときの純粋な気持ちを思い起こさせられる。
思わず、差し伸べられた右手に触れて、祈りを捧げたくなってしまう自分に気がついたとき、今の自分が救いを求めているのだということを、この仏像は改めて教えてくれる。
それを「元品の無明」と呼ぶのかどうかは解らないが、自分は「人」なんだと、この仏像は教えてくれる。
思わず、差し伸べられた右手に触れて、祈りを捧げたくなってしまう自分に気がついたとき、今の自分が救いを求めているのだということを、この仏像は改めて教えてくれる。
それを「元品の無明」と呼ぶのかどうかは解らないが、自分は「人」なんだと、この仏像は教えてくれる。